【芸能】「私のことをいちばん信じてくれたのは…」平野綾(35)を支えた家族の言葉とニューヨークの“事件”〈芸能生活25周年〉
「あんなにおとなしくて、この世界大丈夫かな?」と思われて…35歳になった平野綾の“同級生と話せなかったころ” から続く
2011年に事務所を移籍した平野綾は、活動の軸足をミュージカルへと移す。2013年には『レ・ミゼラブル』ではじめて帝国劇場の舞台にも立つ。翌2014年には『レディ・ベス』で初主演を務めた。だが、その最中に最愛の父が逝去する。
◆◆◆
父の存在は「私の理想です」
――お写真を拝見すると、とても優しそうなお父様ですね。
平野 本当にそうでした。葬儀に来てくれた方に話を聞くと「すごく物腰が柔らかくて、みんなに優しい」と言われました。あと、「誰よりも早く出社して、ひとりでコーヒーを飲んでいる。喫茶店のマスターみたいな人でした」とも聞きましたね(笑)。
――お父様はどのようなご病気でしたか?
平野 癌です。最初は大腸癌ということでしたが、そこは転移先であって、原発巣はおそらく虫垂癌でした。開腹したけどあちこちに転移していたので、そのまま閉じただけだったんです。
時間があったらできるだけ実家に戻るようにしていました。病院から出て在宅看護になった時期もあったので、母がすごく頑張ってくれていたんですけど、その間に母方の家で不幸があったり、実家のワンちゃんが亡くなったり、だいぶ精神的にまいっていたと思います。
――病床のお父様とは、どのような話をされましたか?
平野 父はけっして死ぬつもりはなく、「絶対復帰する」と言ってました。余命宣告をされたときも、まず最初に「いつだったら仕事に復帰できますか?」と聞いていたくらいです。「格好いいな、お父さん」と思いましたね。
――お父様はどのような存在ですか?
平野 私の理想です。仕事の仕方にしても、知識の学び方にしても、すべて父を手本にしてきました。父は外資系の放送局で仕事をし、「世界で活躍する」という理想に邁進していました。病気が分かった頃も、年齢的にはもうベテランなのに、ものすごい量の仕事を抱えていて。ジャンルこそ違えども、私も父の志を引き継ぎたいと思っています。
――お父さんは、平野さんの舞台はご覧になられたんですか?
平野 『レ・ミゼラブル』も『レディ・ベス』も観てもらうことはできませんでした。ただ、父は私が仕事を頑張っている姿が大好きで、すごく応援してくれていました。「綾は考えなしに行動することはなく、すごく熟考して、自分の中で答えを出すから、自分を信じて。自分が“これ”と思ったことは、全部やりなさい」と言ってくれて、最後まで「頑張れ」と後押ししてくれました。私のことをいちばん信じてくれたのは父ですね。
公演の間に亡くなった父、悔しさばかりの初演…「何もかも勉強し直すんだ」
――お父様が亡くなられたのは、『レディ・ベス』の公演中だったそうですね。
平野 東京公演と大阪公演のあいだに亡くなりました。
『レディ・ベス』という物語は、ヘンリー8世とエリザベス1世(レディ・ベス)の関係が随所に出てくる話なので、劇中に父親のことをすごく歌うんですよ。父を超えられるような人になりたくて、父に憧れて……。当時の自分の心境と物語が重なって、泣いて歌えなくなるのをぐっと堪えていました。
――つらい時期でしたね。
平野 この『レディ・ベス』は、3年後(=2017年)に再演することが決まって、初演のときには全然準備ができず、そのときに自分が持っているものでやるしかなかったので、悔しい思いしか残りませんでした。
初めての主演で悔しい思いしか残らないなんて、最悪です。だから、それから3年間は「やれることはすべてやろう」と決意しました。何もかも勉強し直すんだ、と。
〈自身の力不足を痛感したという初主演舞台。『涼宮ハルヒの憂鬱』で声優として大ブレイクした頃も感じた“インプットの必要性”を感じていた彼女は、時間をかけて仕事を調整しながら、学び直しに備えていった。そして2016年、海を渡る。〉
――その後、2016年5月から9月までの約4カ月間、ニューヨークに短期留学しました。
平野 語学の勉強と、歌のレッスンが目的でした。
――もともと英語の勉強はしていたのですか?
平野 やっていました。アニメのイベントで海外に呼ばれることもあるし、ミュージカルで海外のクリエイティブチームとやり取りする際にも必要になります。その際には通訳がつきますけど、ちょっとしたニュアンスとか、直接やり取りできると違いますから。それから留学直前にはいわゆる「駅前留学」に通ったり、元々数年前からイギリス英語の教室にも通っていたので、日本での準備は万端のつもりでした。
でも、いざニューヨークに行ってみると、最初はまったく会話ができませんでした。相手の話すスピードは速いし、なによりニューヨークには人種が多すぎて、それぞれルーツの違う訛りを持っているから、慣れるまで本当にたいへんでした。耳は割と早く慣れたんですけど、しゃべるのはなかなかテンポについていけなかったです。
――語学学校ではどんなことがありましたか?
平野 語学学校には日本人の留学生がいたので、最初は隠れていたんですけどバレてしまい、他の国の生徒や先生にも「あっ、デンデだ!」と……(笑)。
――『ドラゴンボール』シリーズに出てくる、平野さんが演じたキャラクターですね。
平野 高校生の頃は親友もいて楽しい日々でしたが、芸能活動をしている制約があって学生生活が充実していたわけではなかったので、友達ができたことはすごくうれしかったですし、色々と助けられました。ちょうど大統領選挙があった年(ドナルド・トランプが勝利)なので、語学学校でのディベートが本当に白熱していたのもよく覚えています。授業中にケンカになるなんて、やっぱり文化が違うなぁって。
――友人も出来て、学校でも新鮮な毎日があって……と、すごく良い時間を過ごされたように思います。生活には意外とスムーズになじめたんですか?
平野 それが……、トラブル続きだったので、強制的に慣れるしかなかったんです。最初は学校の寮に住んでいたんですけど、プライベートな空間がないことで「もう無理」となって出ることになり、そこで不動産詐欺に遭いました。留学生だからって、すごく足もとを見られたんです。
だから、不動産関係の英単語をものすごく勉強しました。語学学校はエンパイア・ステート・ビルのなかにあって、ボーカルレッスンの学校はブロードウェイにあったので、結局パークアベニューに部屋を借りました。
――目的だったボーカルレッスンのほうはどうでしたか?
平野 それが、渡米前に頼りにしていた方とまったく連絡が取れなくなってしまい……。だから、現地で学校探しからはじめました。コンコンってノックして「入れてください」って(笑)。結果的に、すごく得るものがあっていいレッスンを積めたんですけど、それまでがたいへんでした。
「日本ではスマホに緊急地震速報が入りますけど、当時のニューヨークではテロ警戒のアラートがよく出ていて…」
――先ほど大統領選挙の話がありましたが、その頃のニューヨークはどんな感じでしたか?
平野 日本ではスマホに緊急地震速報が入りますけど、当時のニューヨークではテロ警戒のアラートがよく出ていました。「いまこの電車に乗っちゃダメですよ」とか。それで同じクラスのサウジ系の子たちから「ごめん、今日学校行けなくなっちゃった」とか連絡が入るんです。
――それはメンタルが鍛えられますね。
平野 歌や語学の面で学ぶことは多かったんですけど、精神的にもだいぶ鍛えられました。
――精神的に変わったと思うところは?
平野 他人との距離の取り方が変わったように思います。“自分の居方”というんでしょうかね? 「まあ、私は私だしな」と気負いなく思えるようになったので、仕事の現場でも気が楽になりました。そこは大きな変化ですね。
「うちのママ、すっごく可愛いんですよ」
〈幼少期に育ったニューヨークで様々な経験を重ねた平野。その後も毎年現地に足を運んでいるという。2019年には、ともに病床の父を支えた家族である母とも旅行で訪れている。しかしその時、事件が……〉
――お母様とはどんな関係ですか?
平野 うちのママ、すっごく可愛いんですよ。純粋で嘘がないし、いいことも悪いことも、すごく素直な意見を言ってくれる人です。姉妹とか友達みたいな感覚……というか、ときどき私のほうが母なんじゃないかと思います(笑)。
――お父様が亡くなられたあとは、いかがでしたか?
平野 ずっと看護していたので、かなり参っていました。正直、母をひとり残して留学に行くのは心配でもありましたが、いまこのタイミングで行かないと私も後悔すると思って決行したんです。
――2019年にお母様とニューヨークに旅行に行かれたようですが。
平野 私自身は、2016年に短期留学してからも、年に2回はニューヨークに行ってレッスンを受けたり、ブロードウェイでミュージカルを観たりしていたんですけど、ニューヨークに住んでいた時以来、約30年ぶりに母と一緒にニューヨークに行くことにしたんです。ブロードウェイで好きなミュージカルを観て、元気になってほしいなと。
――まだ幼い平野さんを連れてニューヨークに渡った時代のことは、そのときに話しました?
平野 しました。「ノイローゼになりそうだった」と言ってました。
父は自分の仕事の関係でニューヨークに渡りましたけど、母はニューヨークで暮らしたかったわけではないんですよね。それでも一生懸命に英語を勉強して、幼い私を保育園に連れて行ったんです。当時はまだ日本人も少なく差別もありましたし、すごく治安が悪くて、「絶対に地下鉄は乗っちゃいけない」と言われていたそうです。
ニューヨークの旅行中、事件が…
――お母様との旅行で何がいちばん印象に残っています?
平野 めっちゃケンカしました。
――あら。
平野 普段からケンカはするんですけど、このときはすっごくケンカしました。原因はたぶん、本当に些細なことだったと思います。同性だから、というのもあると思うんですけど。あとでよくよく考えたら、父がいたときには、いつも父があいだに入ってくれていたんです。
あと……、そうだ、大停電があったんです。
――停電?
平野 市内で停電が起こったんです。停電のせいでホテルの部屋に戻れなくて、旅の疲れで熱を出してしまった母が、ロビーで何時間も待機するしかなく、まだ開いているお店でご飯や飲み物を買って、母のために走り回りました。
――外国で体調が悪いときは、母国語が通じる人に甘えたくなりますからね。
平野 「ごめん、綾がいないとママは何もできない」って言ってくるんです。不安だったでしょうね。でも、それだけ信頼されているのが、うれしかったです。父のように頼ってくれているんだな、と。父がやってきたことをこれからは私がやるんだ、という自覚も持てました。
25年を迎えた芸能生活…次第に起こった“変化”
〈昨年、事務所から独立し、2023年で芸能生活25周年を迎える平野。子役として、アイドルとして、歌手として、舞台俳優として、文字通りジャンルを横断して活動を続けてきた彼女は、最近は仕事での変化を感じているという。〉
平野 留学にも気持ちよく送り出してくれて、本当にお世話になった事務所なので、当初は独立する気はなかったんですよね。
ただ、声優の仕事と舞台の仕事は、スケジュール感とかロジックがまったく異なるので、両方を把握できるスタッフは限られちゃうんです。結局、私がいちばん把握できている。だから独立前からマネジメント部分は自分の裁量に任されていました。
そういった経緯があって、事務所に移籍してから10年経って契約が満了するタイミングで独立することになったんです。「それもいいかな」と。
「舞台女優にとっていちばん難しい年齢」になって起こった“すごく不思議なこと”
――いままでと比べて、自分に求められる役回りが変わってきたと感じますか?
平野 30代半ばって、舞台女優にとっていちばん難しい年齢なんです。もっとベテランか、あるいは若手に役が振られやすいんですよね。そういった状況のなか、いますごく不思議なんですけど、「アニメで求められる役柄」と「舞台で求められる役柄」が、すごく似てきたんですよ。
――具体的には?
――それは舞台でも?
平野 そうですね、「ガチのラスボス」みたいな役柄とかもくるようになりました(笑)。年齢と容姿のバランスが釣り合いが取れてきたのも一因だと思います。子役のときには顔と声の釣り合いが取れず、年齢相応の役が回ってこなくて悩みましたけど、年齢と容姿が釣り合ってきて、やる役のバランスが取れてきたように感じます。
――ファンの平野さんに対するイメージも変わってきたと感じますか?
平野 やっぱり私に対しては、アニメ声優、ライブ活動、舞台と、私を知ってくれたタイミングによって、それぞれ異なったイメージが持たれ、それぞれバラバラだったと思うんです。それがだんだん、「平野綾」で統一されてきたんじゃないでしょうか。私にしか出せない雰囲気みたいなものが、ようやくいろんなジャンルで、同じ見方になってきたと感じています。どの仕事も真摯に取り組んで、「自分」を覗かせていきたいですね。今は近く放送されるドラマの撮影の日々ですし、これからの私がどんな役をやるのか、楽しみにしていてください。
写真=原田達夫/文藝春秋
◆
ひらの・あや 1987年10月8日、愛知県生まれ。幼い頃から子役として活動し、TVアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の涼宮ハルヒ役で一躍スターダムに。声優として『らき☆すた』(泉こなた)、『それいけ!アンパンマン』(コキンちゃん)などに出演、ミュージカルとしては『レディ・ベス』(レディ・ベス)、『レ・ミゼラブル』(エポニーヌ)、『モーツァルト!』(コンスタンツェ)などに出演。4月21日からテレビ朝日系列で放送の金曜ナイトドラマ『波よ聞いてくれ』に茅代まどか役で出演するなど、活躍を続けている。
(加山 竜司)