玉村敬太

  • 2024.04.27

90歳のレジェンドイラストレーター・宇野亞喜良「夢中になって日3枚描くこともあります」 | ananweb – マガジンハウス

日本のイラストレーションを牽引してきた立役者、宇野亞喜良さん。グラフィックデザイン、舞台美術、絵本、俳句など活動は多岐にわたり、現在、過去最大規模の「宇野亞喜良展」が開催中。今年90歳になったレジェンドにお話を聞いた。 ――『anan』は宇野亞喜良さんに長年お世話になっており、1970年、創刊間もない頃は「美術」としてファッションページにも関わっていらしたんですね。 (’70年11月発行の17号を見ながら)懐かしいですね。フェリーニの映画が好きだったので、“不思議の国のアリス”というテーマで人工美を追求するようなイメージで作りましたね。ダンサーや自称「女優」の男性や演劇実験室天井棧敷の役者などにモデルになってもらいました。 ――創刊第2号では宇野さんのアトリエにてファッション撮影。ご自身も登場なさっています。 そんなこともありました。写真の中の、壁にかけてあるのは横尾忠則の作品です。’60年代に買ったのだけれど、彼はこの絵が気に入って展覧会にしょっちゅう出すものだから、ほとんど僕の家にはなかったんです(笑)。 ――横尾忠則さんとは’60年代に一緒にイラストレーターの事務所を作られた仲。和田誠さんとも交流があったそうですね。 横尾君と僕はその前に日本デザインセンターというデザイン会社にいました。当時のボスは東京オリンピックのポスターをデザインした亀倉雄策さん。和田君は広告制作会社のライトパブリシティに勤めていて、勤務先がみんな銀座だったから、昼にはよく一緒に食事をしたりお茶を飲んだりしていましたね。 ――その後、3人でアニメーション映画も作られました。そうそうたるメンバーですね。 デザインセンターを辞める話を横尾君としていた頃、銀座に「みゆき族」というのが出始めていたんです。喫茶店で話をしていると、セーラー服の女の子が紙のバッグ(紙袋)を持って店に入ってくる。そしてトイレに入って出てきたら違う衣装になっているんです。長いスカートの裾にフリルがついていたり、装飾的でした。ヒールは履いていなかったな。お母さんに作ってもらったのか、知り合いの洋裁店に頼んだのか、オリジナルの服装ですごくかわいかった。銀座という街に適したファッションをして遊んで、制服に着替えて帰る。場に合わせて日常とは違う姿に変容する様が面白いなと思って見ていました。そんな時代です。 エロティック、背徳的なものに惹かれた。 ――宇野さんは名古屋のご出身。小さな頃から絵を描き、お母様が経営していた喫茶店に作品がたくさん飾られていた。16歳のときに新聞に取材されたのだとか。 坊主頭に学生服を着ている写真が新聞に載りました。父親が今でいうインテリアデザイナーをしていて、それを手伝っているうちにビジュアル系の仕事に興味が湧くようになったんです。お店の装飾をするときに、辞書で調べながら、看板の文字を僕が描いたり。名古屋って、喫茶店で時間を過ごす人が多いんですよね。 ――喫茶店文化の街と聞きます。 当時、母の店は小説新潮や文藝春秋、週刊誌や新聞各紙を揃えていて、お客さんはそれらを読みながらコーヒーを飲むんです。僕も子供の頃から、週刊誌に載っていた舟橋聖一の好色な小説を読んだりしていました。 ――「子供は読んではダメ」と言われなかったのですか? 僕のウチはそういうことは全く言われませんでしたね。 ――絵を描き始めたのはいくつくらいだったのでしょう? どこを描き始めというのかわからないけれど、名古屋が空襲にあうというので、小学2年生~6年生に疎開をしていたんですね。疎開先から家に葉書を出すのに、文章を書くのが苦手で、その日に食べたさつまいもなんかの絵を描いて送ってました。僕はサウスポーなので、小学生の頃は「左団子郎」なんてあだ名をつけられていました(笑)。顔が丸かったんです。 ――宇野さんの絵は細部に不思議な要素が加えられていて、様々な物語を想像させられます。そしてエロティックな魅力があります。 エロティックなものは好きですね。子供の頃から、雑誌の連載小説の裸の挿絵や、週刊誌のヌード写真を目にしていました。中学から高校まで大人に交じって「クロッキーの会」に通っていたんです。会費を払って、女性をモデルにデッサンをするのですが、ベレー帽をかぶったおじさんがいて、さぞかし上手だろうとスケッチブックをのぞいてみたらすごく下手だった。つまり、絵描きのふりをして、ストリップよりも安い料金で女性の裸を見に来ていたんです(笑)。 ――オマセな少年だったんですね。 ませていたのでしょうかね。中学の同級生に不良が一人いて、娼婦の家に泊まって、そこから登校していました。カッコいいなあと憧れました。背徳的なニュアンスがあるものが好きですね。 ――勉強はお好きでしたか? いや、ダメだったと思いますよ。疎開先からの葉書も絵で誤魔化すくらいですから。母の店にはいろんな雑誌が置いてあったので、いわゆる絵画よりも挿絵に惹かれていましたね。あらゆる挿絵をたくさん模写していました。雑誌名と何年何月号の何ページまで書き写して、自分なりのビジュアル辞書のようなものを作ったんです。「絵の辞書」と書くのもカッコ悪いから、和英辞典で調べて初めて「イラストレーション」という言葉に出合い、「Dictionary of Illustration」と英語で書きました。 ――当時からグラフィックデザインやレイアウトに意識が向いていたのですね? そういうところもあったのかもしれません。『少年』と『少年倶楽部』という雑誌をとっていて、妹は『少女』と『少女倶楽部』をとっていたんです。僕はその両方を読んでいました。そのうち妹は中原淳一さんの『それいゆ』を読み始めた。中原さんや内藤ルネさん、長沢節さんらの絵を見ていました。デザイナーになって上京してから、そういう方々にお会いできたのは嬉しかったですね。幼少期から出版物にたくさん触れていたから、イラストレーションを描くようになったのでしょうね。 ――作品が印刷物になるときに原画に忠実であることを求める画家が多いのに対して、宇野さんは印刷物として魅力的であればいいというお考えだと伺いました。 もともと印刷物が好きというのもありますが、印刷技術によって、絵が変わって見えたり、変容していくことが僕のテーマの一つでもあると思います。 ――演劇のポスターや、舞台美術も多く手がけてこられましたが、演劇に興味を持つようになったきっかけは何だったのでしょう? 父親は昔、NHKの放送劇の劇団員だったことがあったらしいです。僕はその姿を見聞きしていないのですが、昔の写真を見ると、父が菊池寛全集を手にしていたり、本棚にはたくさんの戯曲がありました。子供の頃は、知り合いのつてで、御園座という劇場の照明室から歌舞伎を観せてもらったりしていたんです。劇団民藝が戦後最初にやった公演も観に行きましたし、疎開から名古屋に戻ってから上京する21歳まで、歌舞伎、松竹新喜劇、前進座などあらゆる種類の舞台を観ていましたね。 ――演じてみたいと思ったことはないのですか? 役者の側に回ろうと思ったことはないですね。芝居が好きで、若い頃、演劇をやっている先輩に頼まれて絵を描いたのだけれど、「君の絵はセンチメンタル。これからの日本を建設的に考えるときに、こういうセンチメンタリズムではダメだよ」と言われた。自分の思想で日本をどう組み立てていくかなど考えないで、スポンサー付きの、人の言いたいテーマを請け負ってやっていくデザイナーだったら文句はないだろうというふてくされた気持ちが芽生えました。 ――宇野さんは、’70年代の演劇や雑誌に社会的影響力があり、とても熱かった時代を第一線で体感されています。今や全てがスマートフォンの中で完結しているような時代。現在のカルチャーについてはどう思われますか? 社会を俯瞰する人にとっては当然いろんな思いがあるのでしょうが、その気になって情報を集めればきっとどのジャンルも面白い現象は生まれているのだと思います。ただ僕は不勉強で携帯も持っていないので(笑)。でも、先日『ゴジラ‐1.0』が米国アカデミー賞(視覚効果賞)を獲りましたよね? 日本の映画がアメリカで認められるようになるなんて思いませんでした。初代の『ゴジラ』は当時の同僚だったデザイナーの木村恒久と観ました。彼はすごく興奮していたけれど、僕はもっとゴジラを巨大に見せるアングルで撮ればいいのにと不満があった。新しいゴジラは進化しているそうなので、観に行きたいと思っています。 ――70年以上描き続けてこられて、絵に対して興味を失うことはなかったのでしょうか。 きっとあったのでしょうけどね。そういう気持ちをうまく誤魔化して通用しちゃったのでしょうね。演劇や映画が好きで、虚構を創ることが好きだったから、なんとかやっていきたいという一種の芸人根性のようなものもあったのかもしれません。木村恒久が僕のことを書いた文章があって、谷崎潤一郎の小説の『刺青』の清吉に似ていると。女を眠らせている間に刺青を彫る男です。最後に「宇野亞喜良は幇間(ほうかん)がいちばんピッタリだろう」と締められていた。いわゆる太鼓持ちです。媒体がお座敷。スポンサーを喜ばせ、女性たちも楽しませて、自分も結構それが気に入っている。うまい比喩だなあと思いましたね。 ――制約なしに自発的に絵を描かれることはあるのですか? それが案外ないんですよ。スポンサードされ、テーマを与えられて、それをどう表現するか考えるのが好きです。 ――描くことは今も楽しいですか。 アイデアがまとまるまでは時間がかかりますけど、楽しい地点まで辿り着くと面白いです。夢中になって日3枚描くこともあります。アナログなので、絵をいろんなサイズにコピーして、切り貼りしながら、こうして遊ぶみたいに一枚のポスターを作り上げています。 宇野さんのこれまでの膨大な仕事を振り返る「宇野亞喜良展 AQUIRAX UNO」が東京オペラシティ アートギャラリーにて6月16日まで開催中。学生時代のスケッチから、グラフィックデザイナーとしての仕事、アニメーション映画、ポスター、絵本、版画、装丁、立体作品やプロデュースした舞台関係の作品まで幅広く展示。美しく耽美な世界を堪能できる。TEL:050・5541・8600 うの・あきら 1934年生まれ、愛知県出身。’55年に上京。カルピス食品工業、日本デザインセンターなどを経てフリーに。’60年代には寺山修司主宰の演劇実験室天井棧敷などのアングラ演劇ポスターや舞台美術を担当。’90年代は舞台の美術監督を務めたり、「左亭」の俳号で俳句とのコラボレーション作品を発表。’60年日宣美展会員賞、2008年日本絵本賞、’15年読売演劇大賞選考委員特別賞ほか受賞多数。1999年に紫綬褒章、2010年に旭日小綬章を受章。 ※『anan』2024年5月1日号より。写真・玉村敬太 インタビュー、文・黒瀬朋子 (by anan編集部) https://ananweb.jp/news/546192/ Source: ananweb

  • 2024.02.03

浜崎あゆみ、宇多田ヒカル…個性豊かな歌姫たちも台頭! 識者が語る“Y2K”カルチャー愛 | ananweb – マガジンハウス

Y2Kカルチャーへの愛が止まらないポッドキャスト番組『Y2K新書』のパーソナリティ3人がananに登場! 2000年前後に輝いた人やカルチャーを振り返りながら、「個性」についてあれこれ語っていただきました。 女性の台頭を象徴づける才能が次々登場したY2K。 一部界隈で話題沸騰中の『Y2K新書』(TBSポッドキャスト)。作家の柚木麻子さんと振付師・竹中夏海さん、そしてDIVAのゆっきゅんさんが「個性」を中心に、縦横無尽に語り尽くします。 柚木麻子(以下、A):2000年前後に個性が際立っていた人といえば、誰が何と言おうと藤原紀香さん! 彼女は従来の「守ってあげたい女性」ではなく、「顔と体だけの女」を甘んじて受け入れながら恋愛に頼らない自立したキャラを繰り返し演じて、女性たちをエンパワーメントし続けてくれた。その割にあまりにも当たり前のインフラになってしまったところも含めて、無二の輝く個性なんです! 竹中夏海(以下、N):のっけから全開だね~。確かに紀香さん、ドラマにすごく出てた。柚木さん的おすすめ作品は? A:いろいろあるけど近いうちにふたりにも必ず見てほしいのが『昔の男』(※1)。ドロッドロの不倫の果てに、シスターフッドで人生をやり直す物語で、群を抜いて素晴らしいから。私はね、紀香さんの一連の出演作をフェミニズム的に語り直すことが、今こそ必要だと思ってる。 ※1【昔の男】2001年放送。内館牧子脚本、藤原紀香、大沢たかお、富田靖子、阿部寛ら出演。恋人同士だった男女と、現在の恋人や妻が絡み合う愛憎劇を描いたドラマ。 ゆっきゅん(以下、Y):そんなに凄いことをしたのに、なんで当たり前になってしまったんだろう? A:それはやっぱり紀香さんがあまりにもやる気に満ちてサービス精神旺盛だったことが要因かと。 N:あ~、たしかにそうかもね。 A:藤原紀香、杉田かおる、岩佐真悠子を使いこなせない日本のエンタメ界は本当に残念すぎるのよ! N:柚木さんの好きなタイプ、わかりやすすぎるんだけど(笑)。 Y:私的にはやっぱり歌姫カルチャーの話がしたい。’00年代初めは浜崎あゆみや宇多田ヒカル、MISIAを筆頭にソロが乱立した時代。一青窈(ひととよう)は独特の節回しと裸足のパフォーマンスが印象的だったし、自分なりの個性をみんな打ち出していたよね。なかでもすごかったのは断然、川瀬智子(※2)じゃない? ※2【川瀬智子】’97年にロックバンド「the brilliant green」のボーカルとしてデビュー。ソロプロジェクト「Tommy february6」「Tommy heavenly6」でも活動し、ファッションリーダーとしても支持された。 N:あのセルフプロデュース力はかなり先進的だったね。自分を俯瞰する視点がすごかった。 Y:そうなの。メガネ、茶髪ロング、ユニフォームっぽい衣装とかMVのビジュアルとか、隅々までこだわって世界観を作り、やる気のないすっとぼけた感じも秀逸だった。 A:椎名林檎の登場も象徴的だったな。歌姫でありプロデューサーでもある圧倒的才能の彼女に、まじで当時の日本中の女性が魅せられて傾倒していったからね。 N:あ、ともさかりえさんも! A:そう! 私の大好きなともさかりえさんの名曲「カプチーノ」は、ともさかさんと同世代の椎名さんが楽曲提供しているの。お互いの才能が共鳴し合っています! 今でこそ、夏海のように女性が女性をプロデュースするのは当たり前だけど、当時は秋元康さんとか小室哲哉さんみたいな力のあるおじさんが若い女の子を見出してスターにしていた時代。だから本当にセンセーショナルだったのよ~。 Y:カヒミ・カリィさん(※3)もだよね。 A:彼女も中谷美紀や緒川たまきをプロデュースして心酔させた“女を狂わせる女”(笑)。やっぱりY2Kって、カリスマ性のある女性が台頭し始めた時代だったんだよ!! ※3【カヒミ・カリィ】’90年代のカルチャーシーンを代表する歌姫。ミステリアスな美貌と繊細なウィスパーボイスで世界中を魅了した。 自分を発信して道を開いたSNS時代の先駆者たち。 N:身近な話で言うと、私はちょうど’00年に高1で。当時地元の埼玉では、ギャルがマジョリティだったの。で、ある日同級生の一人が茶髪ロングからオン眉のショートにしてきて! それがすっごいかわいくて、そこからうちの学校の風向きがなんとなく変わったんだよね。そういう、ギャルじゃないストリートっぽい感じの子を「個性派」って言ってなかった? A:個性派、言ってた! 懐かしいね~。雑誌で言うと『CUTiE』や『Zipper』だね。のちに“青文字系”と呼ばれた。 N:そう! それで’01年頃から文化祭でファッションショーするのが流行って、県立の普通科でも“ヤザガク”状態だった。 A:あとさ、Y2Kって骨格タイプとかイエベ・ブルベとか、全無視じゃない? あれが面白くて。 Y:わかる。映画版の『キューティーハニー』(※4)とか、めっちゃそう。 ※4【キューティーハニー】人気テレビアニメの実写映画版。「お色気路線から佐藤江梨子さん、市川実日子さんのシスターフッド的な展開に。片桐はいりさんの怪演も見どころ!」(柚木さん) N:あ、私がこの作品ちゃんと観てない理由って、まさにそれで「サトエリ、骨格に衣装が合ってないな…?」と思ってしまったんだよね。 A:今は普通の子でもパーソナル診断をして、自分にフィットするファッションやメイクを追求しているから、一周回って「全無視」が新しく感じられるよね。いっそのこと、似合う似合わないを考えずに、好きな服やメイクを選ぶと唯一無二の何かになれるよ。 Y:骨格や「ベ」、これからは無視が流行る気がする(笑)。 N:ちょっと話ずれるけど「友達親子」が生まれたのもゼロ年前後じゃない? 仲良しで対等な母と子を描いたドラマもたくさんあったし、現実でも定着したよね。私が理想とする友達親子は千秋さん。ブログを読むと、娘さんを尊重されてるのが伝わってくる。 Y:対等で尊重し合える親子関係は、子どもの個性を育む支えになる! N:しかも、千秋さんは自分の個性もガンガン出してきたじゃん。今と違って、特に女性タレントたちはバラエティの現場である種の戦いを強いられていたと思うんだけど、歌いたい歌を歌って、好きなファッションを貫いて、今の活躍にもつながっている。すごいよ。 Y:求められる仕事をしながら、自分の小宇宙は大事に守っていた感じ。最近は芸能人もSNSで発信しやすくなったし、若い女性芸人が音楽活動したり、タレントがブランドを立ち上げたり普通にできるようになったけど、千秋さんが先駆けな気がしてきた。あと、若槻千夏さんも外せないね! N:千秋さんのブログ「苺同盟」と若槻さんのブログ「マーボー豆腐は飲み物です。」は象徴的だね。 『Y2K新書』とは? Y2K(2000年代)のカルチャーが大好きな柚木さん、竹中さん、ゆっきゅんさんによるポッドキャスト番組。2000年前後のドラマや音楽、流行、その他もろもろを独自目線で熱量たっぷりに語る。シーズン1はアーカイブで聴取可能、待望のシーズン2は今年スタートするべく調整中! 柚木さんの新刊発売中。『マリはすてきじゃない魔女』 柚木さん初の児童文学。“人を救わない魔女”マリに振り回されながら、町のみんなが自分のための魔法を見つけていく物語。大人が読んでも、自分らしく生きる手がかりが得られるはず。絵:坂口友佳子。1320円(エトセトラブックス) (写真左)竹中夏海さん 1984年生まれ。藤井隆から=LOVEまで数々の振り付けやステージ演出を担当。老若男女問わずパフォーマーのアイドル性を引き出す。著書に『アイドル保健体育』(CDジャーナルムック)。若い女性の健康に寄り添う活動にも注力。 (写真中央)柚木麻子さん 1981年生まれ。2008年にオール讀物新人賞受賞。女性同士の友情や関係性をテーマにした作品を多く発表。『ナイルパーチの女子会』(文春文庫)、『BUTTER』(新潮文庫)、『らんたん』(小学館)など。 (写真右)ゆっきゅんさん 1995年生まれ。アイドルユニット「電影と少年CQ」として活動し、ミスiDのファイナリストに選出され話題に。2021年よりセルフプロデュースで「DIVA Project」を始動。コラムの執筆でも活躍。 『anan』2024年2月7日号より。写真・玉村敬太 取材、文・熊坂麻美 (by anan編集部) https://ananweb.jp/news/529979/ Source: ananweb

  • 2024.01.23

小山田壮平「時を超えてくるような不思議な歌が書けた」 セカンドアルバムでの手応え | ananweb – マガジンハウス

小山田壮平さんのセカンドアルバムは『時をかけるメロディー』。初のソロアルバム『THE TRAVELING LIFE』から約3年。表題曲が生まれたことにより、アルバムができるという手応えが芽生えたという。 「日常的に曲を作っている中で、2021年の10月頃にスタジオでギターを弾いていたら、『時をかけるメロディー』っていう曲のなんとなくのメロディと歌詞が出てきて。その後、いま僕が住んでる福岡市から実家がある飯塚まで車で1時間弱くらいなんですが、その往復の中でどんどん曲ができていった記憶があります。それで、“自分が落ち込んでいる時や悲しい気持ちになった時に気持ちを持ち上げてくれるメロディ”について歌っているんだと自分で気付きました。最高のメロディはどこかに存在していて、自分がそれにアクセスできる時を待っている感覚があるんです。そんなふうに時を超えてくるような不思議な歌が書けたので、『これはアルバムのテーマになるな』って思いました」 まるでヒーローのようにどこからかやってくるメロディ。そこに様々な記憶や思い出が付随し、蘇ってくる感覚があるかどうかが大事だそう。 「良いメロディに加えて、自分の時間とか、いろいろな側面が内包できていると『良い曲だな』という充実感があるし、単純に幸せな気持ちになれるんですよね」 ネパールを旅した思い出から生まれた「マジカルダンサー」や、沖縄でのゲストハウスでの一夜を描いた「月光荘」など、音楽を通じた交流が曲にとじ込められている。 「2018年にネパールを旅した時に日本人のダンサーとインド人のロイプラジャパティーくんという二人と仲良くなったんです。そのダンサーの踊りを観たり、一緒にダンスを踊る中で、『音楽とダンスは言葉や文化を超えていくな』って改めて思った時のことを書きました。踊っている人がいると子供たちも喜ぶし、世界中にいろいろな人がいるけれど、ダンスでコミュニケーションがとれる。『月光荘』は沖縄のゲストハウスに行った時のことを歌っているんですが、心が自由になれるような宴の音楽だと思います。アルバム全体を通して、生活の中でふと湧いてくる音楽の楽しさが詰まっていると思うので、ぜひいろいろな人に聴いてもらいたいですね」 曲を作り始めてから20年以上が経つ。年々曲を作るペースが落ちているのは、自分がOKとするラインが上がっているから。 「テクニックで書こうとすると、これまで聴いたことのあるような曲になっちゃうんですよね。そういう曲はボツにするので、新しい書き方を発見できた曲だけが残っているんだと思います。いつもとは違う場所に行くと、新たな気持ちになって曲が生まれやすいんです」 2ndアルバム『時をかけるメロディー』。初のドラマタイアップ曲「恋はマーブルの海へ」を含む全12曲収録。【初回限定盤】2022年の弾き語りツアーのライブ音源を収録したライブCD付き。¥4,400 【通常盤】¥3,300(SPEEDSTAR RECORDS) おやまだ・そうへい 1984年生まれ、福岡県出身。2007年、andymoriのボーカル&ギターとして活動開始。’16年からソロで弾き語りツアーをスタート。’20年、初のソロアルバム『THE TRAVELING LIFE』発売。 ※『anan』2024年1月24日号より。写真・玉村敬太 取材、文・小松香里 (by anan編集部) https://ananweb.jp/news/527647/ Source: ananweb

  • 2023.10.17

蓮沼執太「曲を作ることは日常生活の一部」 15年ぶりのソロインストアルバム発表 | ananweb – マガジンハウス

総勢15人による現代版フィルハーモニック・ポップ・オーケストラ、蓮沼執太フィルをコンダクトし、国内外で活躍している蓮沼執太さん。15年ぶりのソロインストアルバム『unpeople』には5年間にわたって自身が奏でた音、集めた音が中心に収められている。映画や演劇やCM音楽を作ることも多い蓮沼さんだが、今作を「自分のための音楽」と位置付ける。 ルールを設けず、自由にあっちに行ったりこっちに行ったりすることを楽しみながら作る。 「僕は毎日のようにライブをしているようなミュージシャンではなく、楽曲制作を中心に活動しています。世の中の“音楽”は、例えば映画音楽だったり、様々なメディアのために作られている音楽がほとんど。僕も嬉しいことにそういった類いの音楽を作る機会をいただくことが多いのですが、ふと『昔は自分のために音楽を作ってたじゃないか』と思うことがありました。それで、プロジェクトの合間にセラピー的に音を作っていって、その制作を振り返ると、『これは純粋に自分のための音楽だな』と。僕にとって曲を作ることは日常生活の一部で、自分の音で自分自身を見つめ直すことができます」 生楽器、電子音、フィールド・レコーディングといった多岐にわたる音が聞こえる。その時どきのムードや感情の赴くままに奏でられた音楽に聞こえるが、曲制作の際に設計図は作るのだろうか。 「自分のために作る楽曲の場合は青写真は作りません。一番大切なのは楽曲の命を吹き込む瞬間である一音目。それが曲の核になるので、決まったルールを設けないで、いつも異なるアプローチで作ります。例えば今この部屋に鳴っている“カチカチ”という音が良いなと思ったらそれをリズムにしてみたり、旋律を乗せてみたり。そういうふうにして自由にあっちに行ったりこっちに行ったりすることを楽しみながら作ります」 本作の収録曲もすべて違うアプローチから生まれた曲だという。 「1曲目の『unpeople』はギターをカッティングしながら心臓の音をループさせたところから作り始めて、最終的にニューウェーブっぽい音になったのが面白かった。『Postpone』はとりあえずワインボトルをポンポン叩いてみたところから制作が始まりました」 コーネリアス、KOM_I、ジェフ・パーカー、グレッグ・フォックスといった縁の深いアーティストが多く参加しているが、「コラボレーションは予期せぬ音との出合いを生み出す」と嬉しそうに話す。 「ゲストで参加していただいた方々のことは全員リスペクトしていますし、『こういう球を投げたらこう返ってきた』という感覚にとてもワクワクします。自分だけでは生まれない、想像の上をいくものができることにコラボレーションの喜びがある。蓮沼フィルも僕以外に14人の演奏家がいますが、その方たちを踏まえて旋律を作ります。だから、蓮沼フィルも“みんなで作っている音楽”という認識ですね。フィールド・レコーディングも、『こういう音が録りたい』という目的よりも、『どんな音と出合えるのかな』という発見の気持ちで音を録りに行きます。何せよ予期せぬ出合いを求めている感覚が強いですね」 アルバム『unpeople』。コーネリアス、KOM_I、ジェフ・パーカー、グレッグ・フォックスなど国内外の縁の深いアーティストがゲスト参加。全14曲収録。【CD】¥3,300(Virgin Music Label&Artist Services) 【LP】¥5,500(SHUTAVINYL002) はすぬま・しゅうた 1983年、東京都生まれ。蓮沼執太フィルを組織し、国内外でのコンサート公演をはじめ、映画、演劇、ダンス、CM楽曲、音楽プロデュース等を手掛ける。第69回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。 ※『anan』2023年10月18日号より。写真・玉村敬太 取材、文・小松香里 (by anan編集部) https://ananweb.jp/news/510177/ Source: ananweb

  • 2023.07.21

デビューは1歳! 21歳になった加藤清史郎「楽しいからやっているっていう根本は今も同じ」 | ananweb – マガジンハウス

デビューはなんと1歳のとき。大河ドラマ『天地人』や映画『忍たま乱太郎』、CMで扮した「こども店長」など代表作は数知れず。2010年のananでは表紙に登場、「Seishiro Love」と題し8ページにわたる特集が組まれたことも。21歳になった加藤清史郎さんが、今、そして当時を語ります。 ――つい先日、11月に帝国劇場で上演のミュージカル『LUPIN~カリオストロ伯爵夫人の秘密~』への出演が発表されました。 ’13年のミュージカル『レ・ミゼラブル』(通称・レミゼ)以来、10年ぶりに帝国劇場(通称・帝劇)に立てるのが何より嬉しいです。僕は高校入学のタイミングでイギリス留学したんですが、向こうにいる間も将来的に日本のミュージカルの世界に戻りたいと思っていて、そのイメージの中にあったのが帝劇でした。初めてミュージカルを観たのも初めて立った舞台も帝劇で、自分にとっては特別な思い入れがある場所なので。 ――幼い頃からドラマ、映画、CMにと活躍されていましたが、そこまでミュージカルに強い思い入れを持ったのはなぜですか? きっかけは、当時の事務所の先輩子役さんがガブローシュという役を演じているからと観に行ったレミゼです。そのとき、この大人たちに交ざって、大人顔負けの熱量で歌って、お芝居して、走り回っている男の子、なんなんだ、すっげえかっこいい…ってなったんです。レミゼという作品も大好きになって、次にオーディションがあったら絶対に受けさせてほしいと事務所にお願いしました。もしあのときに、先輩がガブローシュをやっていなかったら、僕はレミゼもミュージカルも知らないままだったかもしれないし、留学もしてなかったかもしれない。俳優人生のターニングポイントをくれた帝劇に10年ぶりに帰ってこられるということで、ちょっと気合入っちゃってます(笑)。 ――初めてガブローシュ役で出演されたのが’11年。大人気子役として引っ張りだこだった中、ご自分からオーディションを受けられたとは思いませんでした。 当時のことをよく「すごく活躍されていた」と言っていただきますが、僕としては当時も今もその感覚があまりないんです。たしかに『天地人』やこども店長で名前が出て、道端で声をかけられることは増えましたが、学校だったり家族や親戚、友だちだったりが、何も変わらなかった。レミゼのオーディションに関しても、小さいときから散々受けてきて落ちるのが当たり前だと思うようにプログラミングされているので(笑)、抵抗はなかったです。100%出し切って落ちたら、それはご縁とタイミングが合わなかっただけのこと。それでも、あんなに緊張したオーディションってなかったんじゃないかっていうくらいでした。もともと緊張しいではあるけれど、本当に吐くんじゃないかってくらい、過去最高レベルでしたね。 ――ご自身は人気子役の自覚はなかったんですね。 ありがたく感じていましたけれど、ただ自分が楽しいことをやってるだけなのに、いいのかなぁみたいな感覚だった気がします。楽しいからやっているっていう根本は今も同じですけれど、あの頃に比べたら、少しはお芝居をお仕事として見られるようになったかな。 ――’15年に市川海老蔵(現・團十郎)さん主演の六本木歌舞伎に出演されたとき、俳優を辞めるか迷って海老蔵さんに相談したと話されていました。“楽しい”お仕事を辞めようと思っていたのは? あのときは、楽しいことが他にもあったんですね。 ――というのは? 野球です。小さい頃から阪神タイガースが好きで、ずっと大ファンだった赤星(憲広)選手とお話しする機会があって、「俺は中学の途中から野球を始めたから遅くないよ」と言われたんです。そのとき、今からでも自分も野球選手になれるかもしれないと本気で思っちゃったんです。野球選手がお芝居やってるイメージはあまりないけど、CMやバラエティ番組に出られたりもするし、両立できなくないのかなと考えたりもして。 ――その頃は、本気でプロ野球選手を目指そうと思われた? …というと語弊があるかもしれませんが、気持ちとしてです。なれるかはわからないけれど、もしまだ野球選手になる可能性があるならば…と思うくらい野球が好きだったんでしょうね。 ――あの…大変に失礼ですけれど、意外と単純、というか…。 そうなんです(笑)。今もそういうところがありますが、楽しいからやっていて、楽しくなければやれない。俳優業も、子供の頃から親に「いつ辞めてもいいんだよ」って言われてきたおかげで、将来的に家計がどんなに苦しくなっても、楽しくなくなったら辞めるんだろうと思います。逆にどんなに苦しくても、演じる楽しさを超えない限り続けるんでしょうし。 ――ということは、ここまでずっと、楽しいが勝っていた? 今のところ、楽しくないと思ったことはないです。まだまだ僕の経験なんて、たかが知れてますけど。演じている最中も楽しいですけれど、カットがかかった瞬間、舞台だったらカーテンコールでお辞儀して顔を上げた瞬間、楽しいなーって思います。 ――それは達成感? それもあると思いますが、たぶんその瞬間って、感覚がもっとも研ぎ澄まされているんです。喧嘩のシーンとかだとより実感しやすいですけれど、相手が発するあらゆるものを敏感に感じ取って投げ返して、それを向こうが受けて…って、卓球とかテニスのラリーみたいな感覚です。しかもそのラリーには勝ち負けがなくて、どっちも勝ち。そりゃ楽しいですよね。 ドラマ『最高の教師 1年後、私は生徒にされた』は、毎週土曜22時~日テレ系にて放送中。卒業式の日に生徒に殺される未来を体験した女教師・九条里奈(松岡茉優)。自身の死を覆すため、生徒にすべてをかけて向き合う覚悟を決める。加藤さんは、すべてにおいて自分の“楽しい”を優先させる独善的な生徒・相楽琉偉を演じる。 かとう・せいしろう 2001年8月4日生まれ、神奈川県出身。1歳でデビュー、7歳のときに大河ドラマ『天地人』で演じた幼少期の直江兼続で注目を集め、映画『忍たま乱太郎』など数多くの映画やドラマに出演。中学卒業後はイギリスに3年間留学。帰国後に出演したドラマ『ドラゴン桜』第2シリーズやミュージカル『ニュージーズ』なども話題に。 カーディガン¥13,200(ヌワールファブリック/ジーンズ ファクトリー 卸団地本店 TEL:088・861・5100) その他はスタイリスト私物 ※『anan』2023年7月26日号より。写真・玉村敬太 スタイリスト・ダヨシ ヘア&メイク・MYOKEN インタビュー、文・望月リサ (by anan編集部) https://ananweb.jp/news/496380/ Source: ananweb